研究調査活動事業の設置経緯

昭和53年11月、岸信介会長から、協和協会を本格活動させるにあたり、常務理事兼事務局長に任命された清原淳平は、岸会長から、前記のような設立趣旨を説明されたことに加え、その具体的な活動として、「月例講話会のほか、内部に専門の部会や委員会を設置して、国家的課題につき研究調査し、その結果、必要と判断された課題については、政府宛要請書を起案作成して、時々の政府へ提出する」活動をするよう、指示された。
 そして、昭和54年の前半に会員も固まったので、岸信介会長に、清原が「どういう部会から始めましょうか」とうかがったところ、即座に「教育だね」とのお返事があったので、昭和54年の秋には、まず、「教育部会」を設置した。次には、どういう部会をつくるか、うかがうと、「資源のない日本は、エネルギーの確保が重要な課題だから、エネルギー問題を含め、科学技術部会にしよう」との指示で「科学技術部会」を設置した(科学技術と言っても巾が広いので、のちに、この部会の中に、新エネルギー委員会、環境技術委員会、発明検討委員会などを置いた)。
 こうして、各種の部会・委員会が形成されてゆくのだが、そこで清原が気がついたのは、協和協会の参加会員は、日本の各界指導者クラスである(あった)ため、発言力はあっても、ご自身で筆をとって、要請書の文章をまとめることはない方々だということ、したがって、実際の起案・案文化は常務理事兼事務局長の清原はじめ事務局で、その負担が大きいということであった。
 そこで、困った清原は、昭和56年秋に、岸信介会長に事情を話し、「協和協会とは別個に、学者・教育者・評論家・技術者などの専門家にて構成する団体を新しく創っていただきたい」とお願いした。回転の早い岸信介会長はすぐ了解された。そこで、清原が「では、どういう名称にしますか? 法人格はどういたしましょう」と申し上げると、しばらく考えられたのち、その団体の名称は「時代を刷新する会」、法人格は、(財)協和協会と混同しないために、「政治団体」登録することになった。
 そこで、早速、届出をし、昭和56年10月26日、国の許可を得て、「政治団体 時代を刷新する会」が誕生する。そして、この団体に参加いただけそうな各分野にわたる学者・教育者・評論家・技術者にお願い状を出し、参加いただいた方を「時代を刷新する会」の会員とした。
 しかし、上述したように、「(財)協和協会」と「時代を刷新する会」とは、法人格が違うので、一部役員を除いて、役員構成を別に選任し、月例講話会も別に開催するが、ただ、「時代を刷新する会」の学者・教育者・評論家・技術者など専門家は、その専門分野ごとに、「(財)協和協会」が設置した各種部会や委員会に出席できることとする。そして、その部会長や委員長は「(財)協和協会」の会員の方から出し、その部会長や委員長の指示に従い、「時代を刷新する会」の専門家たちが、それぞれ専門的資料を提起し、意見を述べ、筆を執って文章をまとめ、あるいは具体的に政府宛要請書の案文をまとめる、などの作業を行ってきている。つまり、「時代を刷新する会」の会員は、「(財)協和協会」の下ではなく、別個の法人格を持って活動するが、活動面では、いわば内閣と省庁といった「役割分担」の関係にあることを付言しておく。
 なお、これら部会・委員会には、時代の情況により、活動に消長がある。例えば、政治的情況の場合もあるが、部会長や委員長の物故などにより、活動を中断する時期があるが、再び適任者が就任して活動を復活することがある。また、その部会・委員会が過去に政府宛要請書を起案作成している場合もあるので、記録上からも、その部会・委員会を削除・抹消できないこともあるので、過去に設置した部会・委員会を、ほとんど記載してあることを、御承知いただきたい。
 各部会・委員会とも月1回開催を原則とし、その都度、学者や役所の専門官を招いて御説明をいただき、その上で参加委員が研究・検討する形式をとることが多い。