教育部会作成要請書第11本目、政府宛提出要請書25本目、昭和61年1月提出
個性重視・教育基本法・教育行政(校長の職務権限等)に関する要請

【要請書全文】

一、個性重視について

 1、“個性重視”を明確に
 臨教審の第一次答申では、「個性重視は、今次教育改革の主な原則で教育の内容・方法・制度・政策など、教育の全分野が、この原則に照らして、抜本的に見直されねばならない。」とある。しかし、「個性」とは“なにか”について、具体的には明確でない。「子ども、ひとり一人の学力に応じた教育」というならば、“学力別学級編成”と称すべく、また「特殊な分野で優れた能力を、さらに伸ばす教育をすすめる」というのであれば“英才教育”というべきである。
 「個性重視」の抽象論は教育現場を戸惑わせるばかりである。子どもは、それぞれに素質・能力・興味関心がひとり一人異なるから、従来の教育でも画一的教育などは、存在しない。戦後教育で、子どもの興味関心・自主性・自発性を尊重すると称し、教職員団体は、子どもを自由奔放に行動させ放任することが自主性尊重であると高言し、教師の指導を放棄してきた結果が“非行・暴力・いじめ”となって今日の教育の荒廃を招来したことをゆめ忘れてはならないのである。

 2、“個性”と初等中等教育  学校教育は生涯教育の一環として考えられ、「個性重視」もその立場から考えるべきである。人間の素質は生まれた時から異なり、知識・能力・興味関心等は、年齢が高くなるにつれ差異は大きくなる。また最近では、学校以外でも各種の事柄について、学習機会が得られやすくなっていることも考慮すべきである。
 このようなことを前提にすれば、小学校では児童の興味関心のいかんにかかわらず、基礎的、基本的教育内容を習得させるよう教育することが重要である。中学校段階では習熟度別学級指導を考慮する必要がある。これまでそうでなかったことが落ちこぼれる生徒を多く生み出し、非行に走らすことになった。6年制中等教育が、そのような点の解消を目的にするのであれば評価できる。
 高校段階になると、生徒の興味関心も、かなり明確になり、その差異も大きくなるから、それに応じた教育施策が必要である。高校では現在、普通科のほか、農業・工業・商業・水産・家庭・看護・音楽・美術・体育など専門に教える学科があり、十分その要求に応じられる体制はできている。だがこれまで教育行政が十分でなかった結果、普通科以外の学科は例外を除き、普通科に進学できない学力の低い生徒が進学するようになっていて、これらの学科が設けられた目的が達せられないでいる。またこれらの学科の卒業生は大学進学に当たって不利だったことも、学力の高い者にこれらの学科に進学する魅力を失わせた。
 したがって、高校段階で専門の教育をする学科では、その教育を受ける興味関心とそれに必要な学力のある者だけを入学させるようにするとともに、大学進学希望者には普通科出身者に比し不利にならぬ措置を講じさえすれば現在の体制でも十分個性を重視した教育は行えるものと考える。


二、教育基本法に関して

 教育基本法の第一条には、教育の目的として「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社 会の形成者として、真理と正義を愛し個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。」と規定している。しかるに、この条文のなかには、「平和的な国家及び社会の形成者」が、当然身につけなければならない徳性については、何ら明記されていないことが、現在の教育荒廃の原因になっている。
 臨教審としては、教育基本法の見直しをおこない、その改正を検討すべきである。「国家及び社会の形成者」が当然そなえるべき“徳性”は、日本の国で生まれ育ち、われわれの祖先が歴史の歩みの中で創造した、言語・風俗・習慣・倫理・道徳・文化文明などを身に付けることによって得られるもので、わが国の歴史伝統を否定することは自己を否定することになるといえる。すなわち、「国家及び社会の形成者」は、「歴史伝統と公共の利益を尊重する愛国心の持ち主」でなければならない。
 なお、教育基本法第十条に関しては、「不当の支配」「国民全体に対し直接責任を負って」や、二項 の「教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として」などが具体的でなく、教職員団体などに勝手な解釈を許すことになり、それが教育混乱の原因になっている。
 臨教審は、現実を直視し、混乱が生じないよう、最高裁判所の判例などを参考に明確な解釈を示すべきである。


三、教育行政と校長の職務権限

 1、文部省の責任
 一国の文教政策は、国家民族の消長にかかわる重要な政策であり、国の機関である文部省の責任は重大である。
 したがって、文部省は、教育の実態と時代の動向等を見極め、国民の英知を結集して、万全の政策を決定すべきである。特に、義務教育は、ひとり一人の児童・生徒を我が国の有為な社会人に育てていくことによって健全な社会の存続発展を可能にしていく、極めて重要な公的性格をもつものである。
 国はすべての国民に対して適切な内容と程度の教育を受ける機会を均等に保障し、公教育の質的水準の維持向上を図る責任がある。臨教審第一部会の一部に、学習指導要領の基準をゆるめ、高校教科書の検定を廃止する等、並びに文部省を再編成し情報提供などサービス機関化するとともに、国は政策決定、都道府県は予算配分、市町村は管理運営を主体とするよう改める動きがあるが、そのようなことには賛成できないのである。

 2、都道府県教育委員会の責任
 任命権を持ち、勤務条件を定め、市町村教育委員会を指導する立場にある都道府県教育委員会の姿勢が、教育現場に及ぼす影響は極めて大きい。例えば、教員ストなど違法行為に対して、任命権者である都道府県教育委員会が、曖昧な態度をとり、処分の上でアンバランスが生じている。また、教育委員会と教職員団体間の違法な確認書、確認事項等が、学校現場を混乱させ、校長の学校経営上、多くの禍根を残している。これらのことは、速やかに破棄すべきである。

 3、市町村教育委員会の責任
 市町村教育委員会は市区町村の設置した公立学校に最も密接な関係にあって、校舎の保全・整備、学校の組織編成・人事管理、教育課程の管理、教科書、教材の取り扱い等について、学校が本来の目的が達成できるように厳正に指導管理する責任がある。市町村教育委員会の指導管理の如何は、学校教育の成果に大きな影響を与えている。しかるに今日、教育委員会は教職員団体の抵抗を恐れて、事勿れ主義に陥り、教育課程の編成・実施・勤務条件・人事管理等に不十分な点があり、学校現場の秩序が乱れ様々な混乱が起きている。
 そのことは、つぎに列挙する事例からもあきらかである。

  [1]道徳教育の不徹底

  [2]国歌君が代、国旗日の丸についての混乱

  [3]教職不適格教員、指導力のない教員についての指導処理についての曖昧さ

  [4]政治的イデオロギーの強い職員団体の活動に対する処置の不徹底

  [5]有名無実の勤務評定

 

  [6]教職員団体の意向を汲む輪番制の特別昇給等

  [7]教育委員会事務局の非能率と無責任
 今や教育委員会本来の教育行政が強く望まれ、都道府県、市区町村教育委員会の権限と責任を明確にする事が刻下の緊要事である。教育委員会制度は、自治体の大きな経費負担を強いているにもかかわらず、十分機能していないのみならず、その官僚化は事勿れ主義の無責任体制と化し、校長・教頭に責任を転稼する傾向にある。

  このような実態を正し、市区町村教育委員会を強化する事が急がれ、そのため、つぎのような方策 を樹立すべきである。

  [1]教育委員会の共同設置(地方自治法二五二条の七)
 今日、市区町村教育委員会は、一般的に規模が小さく、行政力は極めて弱い。そこで、教諭の市町村に教育委員会を一つ設置し、組織を充実して、適正な機能が発揮できるよう、教育委員会の活性化をはかる。

  [2]教育委員の選任
 教育委員の選任に当たって政治的配慮等が優先し、名誉職的存在となっている例も少なくない。これが教育行政力の低下となっている。教育委員は教育の実態について常に把握し深い知識を得て、教育文化についてすぐれた識見を有し、教育の振興に情熱を傾け、父母住民の信託に応えるべく教育委員としての使命に努める人を厳選すべきである。

  [3]教育長を専門職に
 教育長は、教育委員会の事務局の長として事務局の職員を指揮監督し、その事務を統轄し所管の学校における施設・設備・教育活動・人事等を管理する極めて重要な地位にある。このように教育行政上重要な職務を担当する教育長は教育関係法規・教育行政・教育経営・教育原理等について深い研修をつみ、これらについてすぐれた識見と指導力をもった者が当たる必要がある。そのためには一定の資格をもった専門職とすべきである。教育長は、いやしくも首長部局の腰かけ的地位や昇任過程的存在であってはならない。

 4、学校評議員会の設置
 教育行政や学校運営が適正に行われ、その目的を達成しているかどうかは公正に評価され、また、住民意志や児童生徒の父母の要望が反映されるべきである。教育委員会や学校には、第三者の学校評議員会のような機関の設置が必要である。その委員は栄職経験者若干名とは別に、住民の中から抽選制によっても選び、委員総数は15名〜20名程度(任期2年、半数交替制)が望ましいと思われる。

 5、校長の職務権限

  (1)、現場の実態
 校長は学校の最高責任者として学校教育法二十八条三項に「校務をつかさどり所属職員を監督する」と規定され、その職務は学校経営上のすべての領域にわたっている。しかるに今日、一部の教職員団体によって、次のように校長の職務権限が形骸化されている現場の実態がある。

  [1]集団生活の規律を維持することは、子どもを管理することにつながるとし、自主性を尊重すると称して、放任している。
このため、子どもは、正しい集団行動がとれず、無秩序な学級となり、いじめ・非行・暴力等の根源となっている。

  [2]教師の服装がみだれ、それが子どもによくない影響を与えている。

  [3]校長・教頭や教育委員会、文部省を権力と称し、事ごとに反抗的な教師がいる。

  [4]教育委員会や文部省主催の研修は、官制と称し参加せず、教組主催の集まりには積極的に参加する。

  [5]「教育は教師の手によって、民主化が進められる」として、法規も学習指導要領も認めない。

  [6]「自分の考えが正しい」として、自分勝手に授業を進める教師がいる。

  [7]そのほか、次のような教師もいる。
  ○サラリーマン的教師 ○出動簿に押印しない教師 ○組合活動に熱心すぎる教師、など。

  (2) 校長の具申権の確立
 「校長は所属教職員の任免その他の進退に関する意見を市町村教育委員会に申し出ることができる」(地教行法三十九条)となっている。
 これは教育委員会の内申権に制限を加えるものではなく、任免内申等の法律上の要件ではない。現場の実態を最もよく把握している校長の意見が尊重されず、校長の権限は有名無実となっている。
 したがって、同法三十八条を改訂し「校長の具申をまって内申をおこなう」と改め、人事・給与などに校長の裁量が生かされるべきである。

  (3)、校長研修の強化
 かつて校長には、一般教員よりも高度の資格条件を必要とする校長免許状制度があった。今日その制度はないが、今や校長職にはますます専門性が要求されている。単に教職経験が長いとか、教師として有能であるというだけでは、校長職はつとまらない。教育法規・教職員管理・教育行政等の学習・児童生徒の指導管理等管理職としての、専門的訓練を受ける必要がある。
○教頭の二人制・副校長制を設置し学校運営・管理体制を充実する。
○校長・教頭の受験資格に主任経験を入れる。


   四、教科書について

 現代の社会科および国語科の教科書は、日本の歴史伝統を否定的に記述し、国民としての誇りを失わせるようなものになっている。また、権利を強調し義務についてはごく簡単に触れるだけであるため、自己中心的な人間を生じさせることになり、教育の荒廃や「いじめ」の問題の原因もここにあるといえる。
 国民の安全と幸福は、自国が他国に侵略されてはありえない。それゆえ各国は軍事力を待ち他国からの侵略に備えている。だが、社会科の教科書にはそのことが、明確に理解できるように書かれているものはない。逆に、防衛力を持つことが平和の実現に反するような書き方になっている。
 教科書が、このように、偏向教育の具にされていることは、許されない。これは教科書検定が、十分に行われていないからに他ならない。それは、学習指導要領が簡単で検定の基準が十分でないため、勝手な記述を許した事と、家永裁判以来、文部省の検定が消極的になっていることに原因がある。ところが、臨教審の中には学習指導要領を簡単にしようとの向きもあるようだが、これまでの経過を直視し、少なくとも社会科と国語科とについてはより明確に規定して、偏向した教科書が出現しないように、規制を強めるべきである。
 また、現在のように、教科書会社が作った物を検定するのでは、とかく会社の利益も考慮せざるをえなくなり、厳しく検定することが難しくなる。そこで、検定の方法を変え、教科書の原稿を公募しそれを検定するようにし、合格した原稿によって各会社が工夫をこらして教科書を作るような方式を、新たに考えてみるべきではないか。いずれにせよ、臨教審は偏向した教科書の排除についても十分考慮すべきである。

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