政府宛提出要請書47本目、平成2年11月提出
大嘗祭が合憲・合法であることの法的論拠

【要請書全文】


 今上陛下の「即位の礼」および「大嘗祭」が近づいておりますが、特に「大嘗祭」については、一部勢力がこれに反対し、大嘗祭違憲の訴訟を起こしたり、これを実力で妨害しようとする動きがあることは、誠に遺憾なところであります。
 これらの動きは、イデオロギーによることもさることながら、彼らが問題の本質をよく知らないことに起因するように思われますので、ここに、「大嘗祭」合憲・合法の論拠を提供すると共に、政府は、そうした一部勢力の不当な要求に屈することなく、断固、古式に則り、大嘗祭を執り行われますよう、また、ここに提供した論拠を以て、反対勢力を説得していただきたく、要請いたす次第であります。
 その論旨は次のとおり。

一、古来、天皇の地位継承において、大嘗祭は、本来、原則として、「即位の礼と一体をなす」ものと考えられて来た。

二、世の大嘗祭反対論者(以下、反対者という)は、その理由として、戦後、大嘗祭を明記した登極令ならびに旧皇室典範が失効したことを理由に挙げるが、現行日本国憲法第七条第十号には、天皇の国事行  為として「儀式を行うこと」と明記してある。およそ儀式には、荘厳性が伴い、歴史の古い国ほど宗教 的形式が執られるのは、洋の東西に共通の事実である。(宗教的形式が入っても、外国では政教分離原則 に違反しない、とされることについては後述する)。大嘗祭も、憲法第七条第十号にいう国事行為としての「儀式を行うこと」に入るものである。

三、また、反対者の「明文の規定がないから」という理由も誤りである。けだし、現行法例第二条には、「公の秩序又は善良の風俗に反しない慣習は、明文の規定がなくても、法律と同一の効力を有する」旨の規 定かある。前述のごとく、大嘗祭が即位の礼と一体をなすものとして行われてきたことは、過去百数十代の天皇の地位継承において見られたことであり、それは、立派な「慣習」であるから、大嘗祭について明文の規定がなくとも、何ら妨げにはならない。

四、反対者は「大嘗祭は宗教上の行為だからいけない」というが、大嘗祭は、今日でいう宗教ではなく、日本古来の伝統的な「古式」(文化)と考えるべきである。
 去る平成元年2月24日の御大喪の葬列は平安朝時代の衣服を身につけた源氏物語絵巻を見ているようで、参列者の中から、これならば新陛下も衣冠束帯でお出ましいただいたほうが相応しかった、との声が挙がったくらいである。同様に、大嘗祭も「古式」であって、宗教行為ととるべきではない。

五、宮中の儀式のほか、「衣冠束帯」姿が一般国民の目に触れるのは、神主を中心とする今の神道であることから、一般に「衣冠束帯姿は神道」と直結して誤解されがちであるが、古い時代は絵巻物で見るように、公式には「衣冠束帯」姿であったのであり、それが、たまたま今の神道に残ったというに過ぎない。
さらに言えば、衣冠束帯などの「古式」は古代からであり、その様式などを今日の神道が取り入れているのである。また、歴史的にも、神道がいろいろと派生して今日でいう宗教性を帯びるのは、江戸中期以降のことであり、今日における神道の宗教性をもって、古代からの「古式」を云々するのは逆立ちの論理というべきである。

六、仮に、百歩譲って、大賞祭の方式が「古式」でなく、「宗教」であるとしても、それでも、現行憲法に 違反することにはならない。一部の野党はじめ憲法違反だという人々は、憲法上のいわゆる「政教分離の原則」について、真の学問的意味を理解せず、全く誤った解釈をしているからである。

七、すなわち、「政教分離の原則」についてのわが国の誤解者たちは、この「政教分離」を語感から単純に  「政治と宗教との分離」と考えているが、欧米先進諸国では、過去の宗教戦争の苦い経験から、「政教分 離」とは「国家の中の政治権力組織と宗教権力組織との癒着によって、信教の自由が阻害される場合を禁ずる原理」であり、それに至らなければ違反ではない、と解するのが常識であることを、知るべきである。

八、古来、伝統的な儀式には、洋の東西を問わず宗数的要素が入るのは避けられぬところであり(聖書に手を置く米大統領の就任宣誓、大司教立ち会いの下、キリスト教寺院で行われるイギリス国王の戴冠式など)、外国では、こうした宗教的要素が入っても、それは単に儀式として行われるものであって、それによって政治権力と宗教権力とが癒着するわけではなく、信教の自由が阻害されることもないことをよく知っているので、何ら問題にもならないのである。

九、わが国でも、津市が公共建造物建設に当たって神式地鎮祭を行ったのに対し、最高裁は、神式であっ ても、国・地方自治体が、特定の宗教の教義を広める意図もなく、その意図で金銭的支出をしたわけでもなく、また、その結果、他の宗教を圧迫する効果もないから、憲法第二十条〔政教分離〕に反しない、と判断している。

十、大体、国民も、知人の葬儀に際し、仏教であれば数珠で焼香し、キリスト教であれば賛美歌を合唱して献花し、神道であれば榊を供えて拝礼するというように、主催する側の宗教形式にあわせて儀礼を行うのが、一般の礼儀である。

十一、大嘗祭は、上述のように、憲法第七条第十号の「儀式を行うこと」にあたると解すべきであり、これは内閣の前言と承認によるにせよ、天皇が主催される儀式であって、内閣はこれを執行面、費用面でお助けする立場である。したがって、大嘗祭が仮に神道で行われるとしても、それは、前記の〔政教分離〕の正しい解釈や、一般国民の慣行からして、国事行為ないし皇室の公的行為として行い、政府関係者が参列しても、なんら差し支えないことである。

十二、上記の理由からして、大賞祭のすべてについて、国事行為ないし皇室の公的行為として行う場合に、その費用を政府が出すのは当然である。けだし、旧憲法が政務法と宮務法との二体系を採っていたのに 対し、現行憲法では、皇室関係をも一体系に組み込んだし、また、皇室の私有財産は原則として国庫に帰属せしめたのであるから、そうした点からも御大喪や御即位・大嘗祭に関する諸儀式の費用は、すべて、国庫から支出するのが当然というベきである。

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